●ドラゴンボートとは

ドラゴンボートとは、20名の漕ぎ手と1名の舵取り、それに1人の太鼓手(ドラマー)の合計22名が乗り組み、競争する競技を言います。パワーだけでなく、クルー全員がタイミングを合わせることが必要で、まさに秒以下のタイムを争う競争が展開される様は見る者を圧倒します。

世界のドラゴンボート人口は約1000万人と爆発的に増加の一途で、アジア選手権大会、ヨーロッパ選手権大会など大陸別の大会は勿論のこと、世界選手権大会には世界中の国々からチームが集い競う様は壮観です。今では、世界中に国・地域を代表する協会があり、世界ドラゴンボート連盟の指導の下、発展を続けています。



●ドラゴンボート(龍舟)の起源


 
ドラゴンボート(龍舟)とは、古代中国で生まれた世界最古の手漕ぎ舟の競漕であると言われています。

古代中国の春秋戦国時代、楚の国に屈原(くつげん)という詩人であり政治家がおりました。屈原は秦の謀略から国を守るべく努力しましたが、自国内の権力抗争に敗れ国を追放されてしまいました。その結果、楚の国は秦に支配されてしまいます。国の将来を憂いた屈原は、湖南省の汨羅(べきら)の淵に石を抱いて入水自殺をしました。これを知った近くの漁民たちは、屈原の身を案じ、淵に潜む竜や魚に襲われないようにドラや太鼓を打ち鳴らして探し回りました。以来、屈原が入水した旧暦5月5日にその霊を祭る為の小舟レース大会が各地で行われるようになったといいます。時は紀元前278年だったとか。

又、汨羅の淵に入水した屈原の身を案じた漁民達が、「ちまき」で竜や魚の気を引いて屈原の身を守ろうとしたという説もあり、5月5日の命日にはちまきを食べるようになったとも言われています。

その後、この竜舟は、中国国内は勿論、東南アジア地域など、広い地域で盛んに競漕が行われるようになり、2,000年以上の年月を経て中国から世界へとドラゴンボートは広がっていきました。日本へ伝えられたのは長崎が最初で、今から約350年前の1655年に中国福建省の竜舟文化が伝えられたといわれています。長崎に停泊していた唐の船の乗組員が、冬から春までの出港待ちの間に、ハシケといわれた小舟で競漕するのを市中の人たちが真似をし始め、やがて、雨乞いや水神信仰などの農耕儀礼と重なり、近郊の農漁村へと広まってきました。

長崎では竜舟競漕をペーロンといいます。これは、爬はペー、竜はロン、舟はジェと発音されたことに由来するようです。その後ジェが落ち、ペーロンが定着したものと思われます。

沖縄のハーリーも同じルーツで、兵庫県相生市の相生ペーロンは長崎生まれの造船所の工員達が大正時代に持ち込んで、今では市を代表するイベントになっています。

これら伝統的な竜舟競漕がイベントから競技に変わったのは、1976年に香港で開催された香港国際龍舟祭。これをきっかけにして、欧州選手権大会などが生まれ、日本でも1988年、大阪で日本国際龍舟選手権大会が誕生。急速にドラゴンボート人気が高まりました。

今では、東京、埼玉、横浜、大阪、和歌山、滋賀、京都、鹿児島など全国各地でドラゴンボート大会が開かれています。また、海外では、アジア各国の他、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパ、アフリカ等、世界中に広がり、現在では世界統一規格のドラゴンボートを使った世界選手権競漕も行われるようになっています。現在、日本には、日本龍舟協会をはじめ幾つかのドラゴンボート関係の団体があり、それらの団体や各地の自治体関係者が種々な大会を開催しております。全国にはこのドラゴンボート競漕を目的とするクラブが多数存在し、各大会に向けて活動しております。

このようにドラゴンボートは、アジア発の競技スポーツとして世界的に脚光をあびつつあります。 本年度開催予定の東アジア選手権大会では、公式種目にも決定しました。今後はオリンピック正式種目を目指して、より多くの方に知ってもらい、楽しんで頂けるよう、普及・活性化を進めております。




 

●龍舟アルバム

 昨年行われたドラゴンボートの大会のアルバム集です。

 ■ボンドカップ・東京ドラゴンボート選手権大会(2004年5月23日)

 ■兵庫カップ・相生ドラゴンボート選手権大会(2004年7月4日)

 ■天神祭奉納ボンドカップ・日本国際龍舟選手権大会(2004年7月18日)

 



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