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ドラゴンボート協会の設立

ドラゴンボート競技

ドラゴンボートとは、20名の漕ぎ手と1名の舵取り、それに1人の太鼓手(ドラマー)の合計22名が乗り組み、競争する競技を言います。パワーだけでなく、クルー全員がタイミングを合わせることが必要で、まさに秒以下のタイムを争う競争が展開される様は見る者を圧倒します。

世界のドラゴンボート人口は爆発的に増加の一途で、アジア選手権大会、ヨーロッパ選手権大会など大陸別の大会は勿論のこと、世界選手権大会には世界中の国々からチームが集い競う様は壮観です。今では、世界中に国・地域を代表する協会があり、世界ドラゴンボート連盟の指導の下、発展を続けています。

設立の歩み

日本協会(JDBA)は、1992年7月23日、大阪で理事会、総会を開催し、創設された。会長は、日本カヌー連盟の会長で、当時の衆議院議長、桜内義雄氏。理事長が、その翌日に幕を開けた天神祭り奉納の日本国際龍舟選手権の運営担当をし、報道界に身をおいていた結城肇、そして、初代の事務局長に難波の人気クルー、「好きやねん大阪」の太田輝男代表がそれぞれ就任した。

日本協会は、以後、日本龍舟協会を公式名称としていたが、日本のスポーツ界の流れに応じ、2001年夏の役員会で、「日本ドラゴンボート協会」に変更した。もっとも、漢字で表記するときは、現在も龍舟の2文字をあて、公印も「日本龍舟協会」としている。

その前身は、日本ドラゴンカヌー協会と、日本ドラゴンボートクラブである。いずれも、ドラゴンボート界初の国際レース、日本ドラゴンボート選手権の創設を手伝った関係役員や、愛好者を中心にした同好会的な組織だった。

当時、ドラゴンボートを、ドラゴンカヌーといったのは、大阪の大会企画の相談に預かった日本カヌー連盟の藤木宏清副会長(現)の意見に始まっている。「ドラゴンカヌーと大会を呼んでくれるなら、主催以外、何でも協力しますよ」。この結果、英文と片仮名で大会表記する際は、「ドラゴンカヌー」と呼ぶことになった。だが、第1回大会から、オセアニア、東南アジア各国、そして米国まで視察に回って、ドラゴンカヌーでは通用せず、ドラゴンボートだ!ということを知らされた。

こうした背景から、将来の発展を考え、やがて独自の協会管理組織が必要になると見て、日本ドラゴンカヌー協会という名ばかりの団体を立ち上げ、最初の2回の大会では、日本カヌー連盟と共同主管で、日本国際龍舟選手権を運営する方針を立てた。同時に、海外関係に対応し、独自の判断で動ける組織として、仲間と日本ドラゴンボートクラブをつくったのでる。言うなら、当時の協会組織は、年間を通じ、大阪の大会を運営し、成功させるための愛好者団体といえた。まだ、世界に、この水上スポーツを統括する競技団体も存在しなかったのである。

1990年、思い切って日本国際龍舟選手権から日本ドラゴンカヌー協会をはずし、主管を「日本龍舟協会」一本にした。それとともに、英文、片仮名表記を、国際的に表現である、ドラゴンボートと変更した。

すべて順調に行くかと思われたが、翌年の1991年は、日本ドラゴンボート史上、暗黒の1年となった。バブルが弾け、大阪の大会のメインスポンサーが撤退。ゴールデンウィーク直後、万策尽きて、第4回大会の中断を発表。招待を進めていた中国、インドネシア、シンガポール、香港など各国のクラブに、詫び状を送ることになった。ドラゴンボートの灯は消え、将来の見通しはまったく立たない。12艇の龍舟は、大阪港に近い倉庫会社の一角で、雨ざらしのまま、夏の太陽に焼かれ、短い秋を経験し、厳しい冬を迎えた。

皮肉にも、この1991年の、7月24日、香港で12カ国が参加し、国際ドラゴンボート連盟(IDBF)が結成された。統括団体を提唱した英国とドラゴンボート生みの国、中国、そして1976年に世界初の国際レースを成功させ、今日のブームを作った香港などが、以後世界をリードしている。日本は、代表団を送れず、以後、10年の苦闘を続ける羽目となった。

その12月のある日、琵琶湖でのカヌー関係の会議に関西入りした桜内会長から電話があり、大津市内のホテルで大会中止の無念を話し合った。会長はこのとき、「自分もスポンサーをさがすから、君もがんばれ!」と、力強い約束をしてくれた。

早くも翌1992年1月、会長自身が働きかけ、ビール会社のトップが協賛を了承した。日本国際龍舟選手権の再興はなった。一方、その春、国際舞台に打って出るための協会組織の準備を始めた。IDBFの発足にあわせ、中国の音頭とりで、アジア連盟(ADBF)結成が、2002年8月、香港と、決まったからである。協会の名前から、役員組織、ルールと規定の作成と発行。しなければならない仕事は山済みだった。このとき、「ドラゴンボート協会というと、漕艇のボート協会と紛らわしいかもしれないから、龍舟協会がいいと思う」という桜内会長の案で、日本龍舟協会と名づけた。

いま、日本ドラゴンボート協会は、世界のドラゴンボートの発展の大きな力になっている。これまで、世界選手権、アジア選手権に必ず日本代表を送り、各国の主要レースにも積極的に参加してきた。アジアでは、日本のクルーが来ないと、国際レースとしてみんなが評価しない、といわれるほどだ。 また、日本から、IDBFとADBFの副会長を出し世界の伝統ボートの保護、育成を日本が受け持っている。そうした発展を受け、2002年の第5回アジア選手権相生大会が実現し、日本協会が2009年に一般社団法人化。そして、2010年のアジア大会にはドラゴンボートが正式種目として開催されました。ドラゴンボート競技は、やっと待ちに待った飛翔の時を迎えたと言えます。