●ドラゴンボート(龍舟)の起源

ドラゴンボート(龍舟)とは、古代中国で生まれた世界最古の手漕ぎ舟の競漕であると言われています。
古代中国の春秋戦国時代、楚の国に屈原(くつげん)という詩人であり政治家がおりました。屈原は秦の謀略から国を守るべく努力しましたが、自国内の権力抗争に敗れ国を追放されてしまいました。その結果、楚の国は秦に支配されてしまいます。国の将来を憂いた屈原は、湖南省の汨羅(べきら)の淵に石を抱いて入水自殺をしました。これを知った近くの漁民たちは、屈原の身を案じ、淵に潜む竜や魚に襲われないようにドラや太鼓を打ち鳴らして探し回りました。以来、屈原が入水した旧暦5月5日にその霊を祭る為の小舟レース大会が各地で行われるようになったといいます。時は紀元前278年だったとか。
又、汨羅の淵に入水した屈原の身を案じた漁民達が、「ちまき」で竜や魚の気を引いて屈原の身を守ろうとしたという説もあり、5月5日の命日にはちまきを食べるようになったとも言われています。
その後、この竜舟は、中国国内は勿論、東南アジア地域など、広い地域で盛んに競漕が行われるようになり、2,000年以上の年月を経て中国から世界へとドラゴンボートは広がっていきました。日本へ伝えられたのは長崎が最初で、今から約350年前の1655年に中国福建省の竜舟文化が伝えられたといわれています。長崎に停泊していた唐の船の乗組員が、冬から春までの出港待ちの間に、ハシケといわれた小舟で競漕するのを市中の人たちが真似をし始め、やがて、雨乞いや水神信仰などの農耕儀礼と重なり、近郊の農漁村へと広まってきました。
長崎では竜舟競漕をペーロンといいます。これは、爬はペー、竜はロン、舟はジェと発音されたことに由来するようです。その後ジェが落ち、ペーロンが定着したものと思われます。
沖縄のハーリーも同じルーツで、兵庫県相生市の相生ペーロンは長崎生まれの造船所の工員達が大正時代に持ち込んで、今では市を代表するイベントになっています。
これら伝統的な竜舟競漕がイベントから競技に変わったのは、1976年に香港で開催された香港国際龍舟祭。これをきっかけにして、欧州選手権大会などが生まれ、日本でも1988年、大阪で日本国際龍舟選手権大会が誕生。急速にドラゴンボート人気が高まりました。今では、琵琶湖をはじめ、河口湖(山梨県)、京都の久美浜などで大会が作られ、東京、大阪・吹田市、和歌山等でもドラゴンボート大会が開かれています。このようにスポーツ競技化されたドラゴンボートは、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパ、アフリカ等、世界中に広がり、現在では世界統一規格のドラゴンボート競漕として行われるようになっています。
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●アジア選手権大会・世界選手権大会の歴史
Asian Championships World Championships

(アジア選手権大会)

| 1) |
1994 |
中国 |
筆慶市星湖 |
| 2) |
1996 |
香港 |
城門川 |
| 3) |
1998 |
マレーシア |
ペナン |
| 4) |
2000 |
中国 |
上海市青浦水上運動場 |
| 5) |
2002 |
日本 |
相生市相生湾 |
| 6) |
2004 |
中国 |
無錫市太湖 |
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(世界選手権大会)

| 1) |
1995 |
中国 |
岳陽市 |
| 2) |
1997 |
香港 |
城門川 |
| 3) |
1999 |
英国 |
ノッティンガム市 |
| 4) |
2001 |
米国 |
フィラデルフィア市 |
| 5) |
2003 |
中国 |
上海市青浦区 |
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●アジア選手権大会の歴史

主催 ADBF (アジアドラゴンボート連盟、本部=北京)
主管:開催国、地域協会
共催:開催

第1回大会
1994年
中国広東省、筆慶市
星湖会場
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日本代表は「坊勢酔龍会」
地元では50年ぶりという大水害を克服し、開催。
距離は600Mと1,000M。クラスは男子と女子。
使用艇は、木製の中型艇。太鼓、舵取りのほか、銅鑼係が乗り、23人編成。
開催国中国が、ハイピッチ漕法で、男女とも圧勝。
日本は大事なところで香港、マレーシアに敗れメダルを逸す。 |
第2回大会
1996年
香港
城門川 |
日本代表は「男子が舞浜川探検隊」、混合は「相生市・陸ペーロンチーム」。香港の中国返還を記念してプレ大会として誘致。距離は、250M,500M,
1000M。クラスは、男子、女子、混合の3種目。使用艇は、木製の香港クラシック艇(現IDBF の基準艇となる太鼓手1、舵取り1、漕主20人の合計22人乗り)。
中国と宿敵インドネシアが激突。中国は、世界チャンピオンの広東省・ 順徳クルーが前年の世界選手権岳陽市大会圧勝の余勢を駆ってインドネシアと白熱戦を展開、コース侵害の判定を不服として最終日を待たず、途中棄権。
これを機にオープンの部では中国時代が終わり、翌1997年の第2回世界選手権香港大会で、インドネシア圧勝の道を開いた。日本は、健闘したが、宿敵香港の壁を破れず、メダルを逸す。 |
第3回大会
1998年
マレーシア・ペナン市
ウォータースポーツ・センター
*後で会場変更となり海岸線で開催 |
マレーシアの中国人町で、観光に力をいれ、1999年の Visit Penang
Yea r のプレイベントとして企画された。
日本からは京都の「久美浜チーム」が参加。5月22日に大会は開催されたが、海洋の温度が異常にあがるエルニーニョ現象のため、予定会場の水量が不足し、海洋コースに変更。種目は男子のみで、距離は250Mと500M。
1,000Mは海上コースで距離が取れず中止となる。日本はメダルに届かず。 |
第4回大会
2000年
中国・上海市青浦区
水上運動場 |
日本は、オープンの部に「舞浜川探検隊」、混合に相生市の「陸ペーロンチーム」が参加。
クラスは、オープン、混合、女子の3クラスで、この大会からIDBF規定に習い、男子をオープンとした。距離は250M,
500M, 1,000M。青浦は、上海市では、古文化発祥の地とされ、古来、淀山湖を抱え水郷の町として知られ、観光に力を入れている。
その振興策としてドラゴンボートの国際レースを誘致。2003年には、第5回世界選手権を8月に開催する。この大会で陸ペーロンは日本勢初の銀メダルを獲得した。 |
第5回大会
2002年
日本・兵庫県相生市
相生湾特設会場 |
日本初のアジア大会として、ペーロン競争80年の伝統を持つ相生市で開催された。7ケ国、地域からの参加があり、250M,
500M, 750M の3クラスで熱戦が繰り広げられた。
中国チームが全てのクラスで優勝を飾り、日本は地元相生の「陸ペーロンチーム」が3位に入賞し地元の意地を見せた。 |
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